nariです🙋
私は生まれも、育ちも、広島で、被爆した祖母の孫にあたる被爆3世です。
祖母から聞いた話で、私の祖母は実のお兄さんと一緒に約48.8kmを歩いて、2人の兄弟を探しに被爆地に入市(にゅうし)したと、聞きました。
家から約46.5 km地点にある横川と言う所で歩き疲れたからと、路面電車に乗ろうと運転士さんに、声をかけたら運転士さんは、立ったまま亡くなっていたそうです。
横川から さらに歩き入市し兄弟を確認する為に、うつ伏せになった死体を、ひっくり返しながら、探したと聞きました。最終的には2人のお兄さん達は、生きてたみたいです。
あと 祖母の旦那(祖父)の妹さんが看護学生で、休みか何かで実家に帰って来てたらしく、学校に戻る日(1945年(昭和20年) 8月5日)に妹さんのお母さんが『行くな!行くな!』と、止められたらしいんですが『学校に戻らんと』と、戻ってしまい 1945年(昭和20年)8月6日爆心地付近で被爆、数日後に亡くなられた話も聞きました。
この記事で忘れてはならない実際にあった悲惨な歴史 出来事を繰り返させないためにも、知ってもらいたいと思い投稿しました。
一人でも多くの人達の思いを、全世界へ発信し続けなければならないからです。
私もその中の一人として、発信したいと思います。
1945年(昭和20年) 8月6日 午前8時15分、広島市に投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、人類史上初の核攻撃でした。この出来事は、第二次世界大戦の終結に大きな影響を与えました。

注意⚠️
(目をそらす様な画像もありますが、皆さんへ実際にあった悲劇を、知ってもらいたいと言う思いで載せていますので、ご了承下さい。)
第1節 原爆投下の背景

国際的な軍事背景と日本への原爆投下の理由
第二次世界大戦の末期、連合国は日本の降伏を早めるために原子爆弾の使用を決定しました。
ですが最初の原子爆弾を日本に対して、使用する目的で開発していたわけではありませんでした。
1939年(昭和14年) アインシュタイン博士と物理学者のレオ・シラード博士は、ナチス・ドイツが原子爆弾を開発する可能性を懸念し、アメリカのルーズベルト大統領に対して、原子力研究を進めるように提案しました。この提案を受け、1942年(昭和17年)にルーズベルト大統領はマンハッタン計画(米国で進められた原子爆弾の開発・製造計画)を承認し、原子爆弾の開発が本格的に始まりました。
(※アインシュタイン博士は、原子爆弾の開発には関わっておらず、特殊相対性理論から、E=mc2の関係を導いて発表しただけです。)
最初の原子爆弾の開発は、当初ナチス・ドイツに対抗するために始められました。
しかし、原子爆弾が完成する前の、1945年(昭和20年) 5月にドイツが連合国に降伏した為、アメリカは開発中の原子爆弾の使用対象を日本に変更し、最終的には1945年(昭和20年) 8月6日 午前8時15分、広島に人類史上初となる原子爆弾が投下されることとなりました。
このように、原子爆弾の開発はナチス・ドイツの脅威に対抗するために始まりましたが、ヒトラーの自殺やドイツの降伏により日本への使用が決定されたとも言われています。
広島が選ばれた理由
1945年(昭和20年)の春から投下目標都市の検討が始まりました。都市の規模や爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で進められ、目標都市への空襲が禁止されました。
原爆の投下目標都市は、軍人と科学者で構成する目標検討委員会で、軍事的観点から検討されました。1945年(昭和20年)4月27日の第1回会議で目標地域の選定基準が決まり、17地域が研究対象として選ばれました。
5月11日の第2回会議では、都市の規模や爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で京都、広島、横浜、小倉の4つの目標が選ばれました。
その後目標都市は何度か変更され、7月末に広島、小倉、新潟、長崎となり、8月2日、優先順位は広島、小倉、長崎の順となりました。
なぜ 広島を第1目標とされたのか?
それはアメリカが知る限り小倉には捕虜収容所があり、目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思われていたためです。
広島は軍事的な重要拠点であり、原爆の効果を最大限に発揮できると考えられていました。
第2節 原爆投下の瞬間

投下の詳細
1945年(昭和20年) 8月6日午前8時15分、広島市上空約600メートルで原爆が炸裂しました。広島の空に一瞬の閃光が走り、その後に続く巨大な爆発音や爆風が街を揺るがしました。この日、広島は人類史上初めての原子爆弾の攻撃を受けたのです。爆心地から半径2キロメートル以内の建物はほぼ全てが破壊され、数十万人の命が一瞬にして奪われました。
広島の惨状
昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやく まどろみ(「少しウトウトする」「寝入る」の意味)かけていた人々に、午前7時9分、警戒警報のサイレンで、たたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕(ぼうくうごう)や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。

この時、広島中央放送局(現在 NHK広島放送局)では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴り古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾く(かたむ・く)のを感じ、体が宙に浮き上がり飛ばされたそうです。
第3節 放射線の種類と黒い雨の影響

初期放射線
原爆が爆発した瞬間に放出される放射線を「初期放射線」と呼びます。これは爆発後1分以内に放射され、爆心地から約1キロメートル以内にいた人々に致命的な影響を与えました。初期放射線は、ガンマ線と中性子線が主な成分で、これらは人体の細胞を破壊し、急性放射線障害を引き起こします。
残留放射線
爆発後に地上に残る放射線を「残留放射線」と呼びます。これは、爆発後数時間から数週間にわたって放射され続けます。残留放射線は、爆心地周辺の土壌や建物に吸収され、後に被爆地に入った人々にも影響を与えました。
放射線による健康被害
急性障害
放射線被曝直後に現れる症状を「急性障害」と言います。これには、吐き気、嘔吐、下痢、脱毛、出血、皮膚の火傷などが含まれます。これらの症状は、放射線が体内の細胞を破壊することによって引き起こされます。
長期的影響
放射線被曝の長期的影響には、白血病やその他のがん、遺伝的影響などがあります。被爆者の中には、数年から数十年後にこれらの病気を発症する人も多くいます。
黒い雨の影響

黒い雨とは、1945年(昭和20年) 8月6日に広島に投下された原子爆弾の爆発後に降った雨のことです。この雨は、爆発によって巻き上げられた泥やほこりに放射性物質などを含んだ、黒くて粘り気のある大粒の雨でした。
発生の原因は、原爆の爆発とそれに伴う大火災による上昇気流が雨雲を形成し、その後、放射性物質を含んだ雨が降り始めたことです。降り始めたのは爆発の20~30分後で、広島市の北西部を中心に大雨が降りました。
健康への影響としては、この雨に直接打たれた人々は、二次的な被曝により急性放射線障害を引き起こしました。具体的には、頭髪の脱毛、歯ぐきからの大量出血、血便、急性白血病による大量の吐血などが報告されています。また、雨水を飲んだり、汚染された水を使用した人々も健康被害を受けました。
降雨地域については、従来は爆心地の北西部に限定されていましたが、近年の調査により、実際にはより広範囲に降雨があったことが確認されています。
このように、黒い雨は広島原爆の被害をさらに拡大させ、多くの人々に深刻な健康被害をもたらしています。
第4節 原爆で亡くなられた死者数

広島市の調べによると、原爆投下後に様々な機関も調査を行っていますが、原爆によって死亡した人の数については、現在でも、正確には分かっていません。広島市では、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計しています。
広島市には約35万人がいましたが、居住者や軍人、通勤者、建物疎開作業に動員された人々が含まれます。日本人だけでなく、日系米国人、ドイツ人神父、東南アジアからの留学生、朝鮮や台湾、中国大陸からの人々、そして米兵捕虜など、様々な国籍の人々も原爆の被害に巻き込まれたとも言われています。
一般市民(国民)の被害者の方々へ
心からお悔やみ申し上げます。あなたの犠牲を忘れず、平和を祈り続けます。
最後まで観覧してもらい有難うございます。

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